福祉の街 社長ブログ

三度味わえるひつまぶしのような小説 「蜜蜂と遠雷」

 

「まるで雨のしずくがおのれの重みに耐えかねて一粒一粒垂れているような―」(バッハ平均律クラヴィーア)。

今年の直木賞、本屋大賞受賞作品である恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」の一文である。

 6月私はこの本を買ったが、しばらく読まずに横に置いてあった。クラシック音楽にほど遠い自分にとっては敷居が高い小説のように思えた。

7月当社の新入職員のS君に「長い通勤時間に慣れた?」と声をかけたところ、「通勤時間がもっと長くなってほしいと思うほど、今夢中になって読んでいる本があります」と。その本が「蜜蜂と遠雷」とわかって、私も負けまいと読み始めた。そして、私にとってはひつまぶしのような小説となった。

 

蜜蜂と遠雷










 (一杯目:そのまま食べる)

 「蜜蜂と遠雷」は日本で三年に一度開催される浜松国際音楽ピアノコンクールをモデルとした小説である。本の帯の内容をそのまま記す。

「3年毎に開催される芳ケ江国際ピアノコンクール。ここを制した者は世界最高峰のSピアノコンクールで優勝するというジンクスがあり近年、覇者である新たな才能の出現は音楽界の事件となった。養蜂家の父とともに各地を転々として自宅にピアノを持たない少年・風間塵16歳。かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳。音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンで妻子もおりコンクール年齢ギリギリの高石明石28歳。完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・Cレヴィルアナトール19歳。彼らをはじめとした数多くの天才たちが繰り広げる競争という名の自らとの闘い。第1次から第3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?」 


風間塵の演奏するエスラメイのように、私の読書のスピードも後半のクライマックスに向かって加速していくが、いつの間にかブレーキをかけている自分がいる。「蜜蜂と遠雷」の世界にずっと浸っていたい。4人のコンタストが競争しながらも、お互いに触発し成長し、そしてつながっていく・・・・・。この感覚をずっと味わっていたい。それでも「最後の音が潔く打ち鳴らされ」読み終えてしまう。ひつまぶしの一杯目はそのまま食べ終えてしまった。

 

(二杯目:薬味をかけて食べる)

 今回「蜜蜂と遠雷」のピアノ曲全51曲が収録されたCDが発売された。私は早速手に入れ、曲を聴きながら本を読み直した。

冒頭の平均律クラヴィーア、ショパンのバラード「子供に絵本を読み聞かせているところを連想してしまう」、バルトークのソナタ「これは確かに太鼓を叩く喜びに近い。・・・人間の身体に染み付いた根源的な喜びだ」。なんと繊細なんだろう。本当の音以上にその音を感じるような描写である。言葉の描写と音の表現が重なり合ったとき、私は背中にぞくっとするような何とも言えないような感覚を覚える。そして無限の至福感。こうしてひつまぶしの二杯目を、うなぎと薬味が一体となった絶妙な味わいを楽しみながら食べる。

 

(三杯目:お茶づけのようにして食べる)

 「再現性という点では、音楽も活け花と同じでほんの一瞬。ずっとこの世にとどめておくことはできない」

風間塵と活け花の師匠との会話である。同じように、この本に沢山散りばめられた繊細でガラス細工のような言葉の描写も、ほんの一瞬ではかなく消えてしまうような気がする。私はそのガラス細工を丁寧に拾い集めるように、気に入った描写をノートに書き写す。描写だけではない。音楽の在り方、そして「通常、難曲を弾くコンテスタントはこれから難しいのをやりますと身構える。それはますます曲を難しくするし、聴いている側にも難しい曲になってしまう」「ピアノを弾いているというよりは、ピアノに弾かされているという感じがする」というような、私たちが生きていく上で大切で、深みのあるメッセージをこの小説は届けてくれる。こうした一つ一つを自分に刻みながら、ひつまぶしの三杯目を食べる。

 

(最後に:四杯目)

今後このような小説にめぐりあえるだろうか。ふとやり残したことがあることに気付く。そう、実はひつまぶしも四杯目があると言う。

この小説を読んだ人と、「あ!そこそうだよね」とか「そんな読み方あるんだ」というような話をしてみたい、共感し合いたい。そんな気持ちが湧いてきた。四人のコンタストがつながり、お互い共感し合ったように。

本当はそれもこの小説の大切なテーマなのかも知れない。今年も読書の秋がやってきた。


*太字は原作「蜜蜂と遠雷」から引用した部分です

 

平尾 雅司