福祉の街 社長ブログ

私の出身は?~「京都ぎらい」から自分を振り返る~

  京都育ちの井上章一さんが著された「京都ぎらい」が、新書大賞2016第一位になった。学生時代を京都で過ごした私には、とても納得できる一冊であった。

 

大阪人の言葉を借りれば「京都人はお高くとまって偉そう」。しかし、同じ京都の中でも洛中から同心円状に広がる秩序がある。また、同じ京都市内でも井上さんが生まれ育った嵯峨のように、洛中の人から京都とみなされない洛外がある。この本は、そういう京都のもつ排他性、選民意識、中華思想を面白おかしく紹介している。さらに、同じワナに陥ってしまいそうな井上さんご自身、そして現代日本人に潜む思想に鋭く切り込まれている。 

 

 洛中の街並み

 

(私の出身)

ところで私は奈良県で生まれ、その後京都府の京田辺市というところに引っ越した。京都と言っても、洛外を通り越した「山城国」、いわゆる田舎である。ただ中学以降は、京都市内の洛中にある学校に通っていた。

 今でも「出身は?」と訊かれるとどう答えようかと考えてしまう。「奈良県生まれ京都府育ち」「京都郊外」「関西」「学校は中学以降京都」、その場に応じて一様ではない。洛中の人からすれば、私が「京都」出身と答えることなど許されない。

思い起こせば中学・高校の時、周りは洛中の人が殆どで、洛外の人は1割にも満たなかった。差別や虐めを受けたわけではないが、何か洛中の人とは感じが違った。これをコンプレックスというのだろう。

 

(輪の中に入れる人、入れない人) 

 そもそも出身地の定義も、「生まれ育ったところ」、「人格形成の基礎となったところ」、「自分のルーツになったところ」と曖昧もいいところである。出身地自体にどれほどの意味があるのかと思うけれど、facebookにも出身地欄がある。初めて会う人との会話ではなぜか「出身地」が話題にのぼることが多く、同じ出身地であることがわかれば、妙に盛り上がったりする。しかし、同郷の人たちが故郷の話で盛り上がっている傍らで、話に入っていけず白けた思いをしたこと、そんな経験をされた方も多いのではないか。故郷とか郷土愛は大切であるが、一方で排他的な側面をもつ。

東日本大震災以降、「絆」「連帯」という言葉が良くきかれるようになった。しかしその輪に入れる人はいいが、輪に入れない人もいるのだ。「絆」や「連帯」は故郷だけではない。会社、組合、同窓、facebook、地域、介護保険制度。SNSや社会保障制度など私たちの仕事に関わる分野まで及ぶ。

 

(自戒)

私も時に「介護保険制度は共同連帯の理念に基づき、要介護者等を地域社会全体で支える・・・」というように介護保険制度を教科書的に説明する。「連帯」の理念に間違いないが、やはり地域社会の輪に溶け込めない人や、介護保険制度の輪にも入れない人がいる。私たちはそのことを忘れ、無意識のうちに排他的になっていないだろうか。

 

 かつて京都郊外に住み、洛中で学生時代を送っただけで、出身地に「京都」という言葉を入れようとしている自分の心のどこかに、京都や洛中への憧れとコンプレックス、反発、そして中華思想みたいなものが屈折して混在しているように思えてならない。

いずれも自戒しなければならない。

 

平尾 雅司